新興宗教との関わり方を考える。

ここでの新興宗教というのは、所謂、宗教法人の法人格を持っているような宗教団体だけに限らず、現代に特有の人間の関係全般のことを指します。

 

この現代に特有の人間の関係というのはどういったものでしょうか?少し考えてみましょう。ですが、その前に、私たちの日常生活を送っている場所と、そこに深い関わりのある情報について説明するということから今回はアプローチしていきたいと思います。

 

私たちの日常生活を送っている場所というのは、自分の自宅であったり、学校、職場、あるいはそういった場所への移動経路だったりします。これらの場所というものは自分自身にとって具体的で非常に身近なものです。そういった場所というものは、その場所と自分の知覚との関係の間にインターフェースを介在させる必要性というものが原則的にはありません。

 

そのような日常生活の場所というものは、自分の知覚にとって直観的に与えられている世界です。では、それを実際に地図などを使って確かめてみましょう。ここからは、ご自身の住んでいる場所を地図を使って眺めながら読み進めていってください。

 

言葉ですべてを説明しようとすると少し複雑になってしまうので、簡略化のために、自分の自宅をA、学校や職場をB、その他の自分がよく立ち寄る場所をCとします。そして、その場所への移動経路を=>で表す事にします。実際には、自分にとって直観的な世界というのはA=>B=>A、A=>C=>A、A=>C=>B=>A、A=>B=>C=>Aといった単純な関係式で表されるごく狭い範囲の個人的な体験になります。

 

世の中には、行動的な人もいるので、これらの関係式の範囲に全ての人の日常生活の体験が収まるということはありません。ですが、基本的には上述の関係式の範囲に自分の日常生活の体験が収まってしまう人が大半だと思います。以上によって分かるのは、一人の人間が、例えば日本国内で起きていることに関する情報をリアルタイムに全て把握するということは、まず不可能だということです。実際、自分の生活している範囲を地図で確認してみると、日本国内のかなり限定されたエリアのみに行動範囲が収まっている事がわかります。

 

例えば一人の人が「これからは体育会系の時代だ!」という発言をしたとしても、実際にその人の活動範囲というのは上述の関係式の中に具体的な場所の名前を入れただけの範囲内の体験に基づくものということになります。ここで、注意しなければいけないのは彼が仕入れた他人の発言やマスメディア等の伝聞情報の存在です。ただここでは、話をやはり簡略化するために、一端、マスメディアの存在を捨象します。

 

仮に、その発言をする人の自宅がa、職場や学校がb、その他の自分がよく立ち寄る場所をcとすると、先程の「これからは体育会系の時代だ!」という発言には、「a=>b=>a、a=>c=>a、a=>c=>b=>a、a=>b=>c=>aといった場所における日常生活を体験している人によれば」という前提が隠れていることになります。この時点で、この人の言っていることが、自分の日常生活の体験においても適用できるのか、その発言の信憑性を疑ってみる必要があります。

 

特に、その人の知的能力が果たして信頼に足るものなのかということは非常に重要な要素です。もしあなたの自宅がd、職場や学校がe、その他の自分がよく立ち寄る場所がfであり、その発言者と生活上の接点がほとんどないのであれば、もうこの時点で、あなたは直観的に確認する事ができる日常生活の体験の外側の出来事に関して、判断を下さなくてはいけないという事になってしまいます。ですので、違う世界の出来事と軽く受け流してしまっても何等問題ないでしょう。

 

もし発言者の言っていることが本当だと受け入れるのであれば、実際にあなたの日常生活の体験において、そういった事が導出できるのかということを確認してみないといけません。恐らくその段階で、「体育会系」って何だろうという疑問が湧きおこってくるはずです。「体育会系」って何でしょうか?私は「私は体育会系です」あるいは「あの人は体育会系だね」という人を社会人になって見た事がないです。なので、私だったら彼は何か無いものを有ると思ったのだなと考える事にします。このようなフィルタリングを行うのが他人の言っていることを受け入れる際の基本的態度です。

 

では彼が仕入れた他人の発言を含むマスメディア等の伝聞情報の存在を考慮に入れるとどうなるでしょうか、この場合、少し話が複雑になります。もし彼の発言が、彼の日常生活の体験から導出されたものではない場合、この発言は伝聞情報に影響をうけたものという事になります。

 

そして、彼は「これからは体育会系の時代だ!」という情報を偶々何がしかのインターフェースを介して、受け入れたのかもしれませんし、色々な情報を総合して、そのように結論づけたのかもしれません。この場合のインターフェースは現代であれば人、メール、SNS、テレビ、ラジオ、新聞、インターネット、手紙などが考えられるでしょうか。

 

このインターフェースの存在を前提すると、場合によって、あなた以外の他人が、あなたにとって直観的な日常生活の体験の場所であるd=>e=>d、d=>f=>d、d=>e=>f=>d、d=>f=>e=>dに関する、あなたが知っている相当数の情報を持っていることがあるかもしれません。それは相当稀なケースです。それなりの悪意やマンパワーがないとできないことなので、もし、そういうことがあなたの身の回りにあるようでしたら、倒錯した精神病理を持つ人間たちによる犯罪相当の行為の存在を疑った方が良いでしょう。

 

そういうことを、仕掛けてくる人物や情報源とは、あなたが一般市民であれば、絶対に関わってはいけません。そして、これは例外中の例外の事態です。ただ安心して欲しいのは、こういうことをする人間というのは哲学的な素養を欠いた不具者であり愚か者です。このような人間たちは、その病的な状態から情報を正確に受け入れる判断力はないと考えて問題ありません。そして人格が破綻しています。昔あったチェーンメール不幸の手紙と同じような性質のものです。最近ではいい年した大人がそういう情無いことをサラリーマン的な権力闘争の中でやり始めたようです。明確な所掌業務のない暇そうな官公庁内部でも、そういうことが蔓延しているようです。そういう場所は早くスクラップにした方が良いのですがね。

 

話を戻します。通常、もし発言者である人物が、情報を正確に受け入れる判断力のある人間であると、あなたが信頼するのであれば、これらの伝聞情報の信憑性の問題という事になります。

 

しかし、この時点で、あなたは、発言者にとっても日常生活の体験の外の情報について判断を下すということになります。これは難易度が非常に高いです。実際に発言者がどのようなソースを元に、その発言を行ったのかということについて、正確に知る必要があるからです。

 

彼が一次情報を入手できる人であれば話は単純ですが、それが又聞き、あるいは又聞きの又聞きというような情報だった場合、もはや手に負えません。この手の情報は絶対に信用してはいけません。これが、伝聞情報に影響を受けた発言者に対する基本的態度です。そして、補足になりますが、伝聞情報全般についても、前述のフィルタリングが有効です。また、伝聞情報のうち、マスメディアとの接し方に関しては以下のような記事を書いているので参考にしてください。

 

erscheinung.hatenablog.com 

現代に特有の人間の関係とは、自分たちが直観的に知覚できる日常生活の体験の枠外の情報が氾濫している状態の中でのコミュニケーションのことを言います。そのような、環境において正確な情報を把握するためには、原則的には上述の基本的態度を取る事が望ましいと言えるでしょう。

 

しかしながら、現代の私たちの日常生活において、これまでに申し上げた基本的態度を厳密に履行することは不可能です。結果として、その内容は、実際には無いものを有るように信じ込まされているような心理状態を生み出す主体と、その主体に盲目的に従う人間という構図に陥りがちです。

 

これらは、法人格こそ与えられていませんが、ある種の新興宗教です。一種の精神病理として扱った方が良い問題だと思うのですが、この仕事は専門家だけに任せていたのでは意味がなく、個人が自分で知識を高めて、自分で問題を解決するしかないのです。世の中に多く存在する法人格を有する新興宗教も基本的な構造は同じです。そのような新興宗教関係者とは、なるべく距離を置く。そして、もし関わらなくてはいけないことがあったとしても彼等の言っていることを真剣に受け止めてはいけません。

 

彼らと付き合ったとしても、あなたの個人的な問題が解決することは、全くと言っていいほどありません。むしろ、状態を悪化させる可能性の方が高いです。彼等の一部は自分たちの教えに反する人間を標的にして加害行為に及ぶことを躊躇いません。

 

彼等の善悪の基準はとても曖昧で安定しておらず、その行動原理は独善的かつ昭和の勧善懲悪ものの陳腐な物語のような、単純で幼稚な世界観を体現するものになっています。よって、誰がどのようなタイミングで、このような集団の標的になるのかという明確な線引きが出来ず、全ての人が場合によって彼等による危害の対象になり得る状態なのです。そして、その場合、大の大人が幼稚園児の喧嘩のようなことを平然と仕掛けてくることになります。対話は実際のところ不可能です。要するに対話以前の問題というか、その辺りの教育すらまともに受けてないのではないでしょうか?残念ですが、宗教としては未熟なものと言わざるを得ないという、この気まずさをどう処理したらいいのか困ってしまいます。

 

口では世界平和だとか人間主義だと言ってる割に、やってることが反社そのものだというのはどういうことなのでしょうか?日々の自分の生活に集中している人間の感覚があれば、そんなことはおかしいというのは、誰だって分かる事でしょう。自覚がないのは不具だからです。本当に残念ですが個人的に、これには心底失望しているのです。これほどまでに自制の効かない集団が好き勝手にやっているという事態には唖然としましたし、彼等の人間性の下限が底なしだという事態には戦慄しています。何か、過去に辛い境遇があって、そのように変質してしまったのだと思うのですが、誰かが真剣に心のケアを施して人生の軌道を修正してあげないと、結局のところ不具は不具のまま他人に利用されるだけで人生終ることになるのではないでしょうか?仲間はたくさんいるはずなのに、誰もそれを指摘してあげられないというのは集団としてもどうなのでしょう?

 

 結果として、彼等の運動の本質は自律に失敗した人間であることの自主的なラベリングと、如何に戦前の全体主義的な日本人の体質が温存されているのかということの証明になっています。この一連の人的活動の本当の主体が誰なのかは正直よくわかりませんが、結局、彼らも誰かから利用されている存在でしかないのです。

 

戦前の日本は、錦の御旗を掲げて実際には相当無謀でおかしなことをやってしまった過去があり、その点について今でも潜在的に国際環境における批判の的になるような危うい状態が厳然としてあるのです。しかし、このようなことをする彼等は、戦前の反省をしている人間の集団ではありません。

 

ですので、彼等との関係は避けられるならば避けましょう。これには、もちろん例外もあり得ますが、この情報があるのと無いのとでは立ち回りも異なってくるはずです。

 

結局ですが、自分の問題は自分である程度解決することができないと本当にどうしようもないのです。ただ、そこでそういった人たちに差別的な態度を取るのではなく、きちんと大人の対応をするということも大事になります。肝心なのは、優しさと、ある一線を越えた場合には突き放すという意志の強さです。その点、色々と難しいですが、それは自分で工夫してください。これについても参考になりそうな記事を書いているのでどうぞ。 

 

erscheinung.hatenablog.com

erscheinung.hatenablog.com

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 私がはてなブログに日本語で残しておきたいことは以上です。ここで私が言っていることを受け入れるのか受け入れないのかは自分で判断してください。この程度の知識は本当は高等教育で最低限、誰かが教えないといけない事ですが、残念ながら教育が行き届いていない人が世の中には多いようです。日本の場合、外形的には大卒という肩書きの人や政府首脳や政府高官の中でも、分かっているのか怪しい人が多いので気をつけてください。要するに人間としてのフォーマットがなされていない人たちがこの国を牽引しているのです。その意味をよく考えましょう。

 

このように、日本が独立国として特殊な状態であるというのは致し方のないことなのです。恐らく今後もこの状態は変わることはないかもしれません。非常に残念ですが...ただ、このことはある意味では幸運だったという側面もなくはないのです。

 

声がデカイだけの人間に火器の類を持たせると、どうなるのかという失敗の前例は多数ありますし、私も現在進行形で、その完全なる失敗作を目撃しています。

 

この点、よく考えてみると何をしたらいいのかが良くわかります。まずは、自分でよく考えるということが大事です。

 

そして街やネットをよく観察してみてください。最近の傾向は駄目な人間ほど目立つようになってきています。はっきりこれだけは言わせてください。彼等は本当にどうしようもない駄目人間です。ですから、そのような人たちに不快な気分にさせられるような事があったとしても、基本的態度に立ち返って日々の生活に戻りましょう。例えば、もし、あなたが高校や大学に行く事ができない境遇にあったとしても、ここで紹介したことを、実践していれば、それなりの知識は身に付くはずです。頑張ってください。