新興宗教との関わり方を考える。

ここでの新興宗教というのは、所謂、宗教法人の法人格を持っているような宗教団体だけに限らず、現代に特有の人間の関係全般のことを指します。

 

この現代に特有の人間の関係というのはどういったものでしょうか?少し考えてみましょう。ですが、その前に、私たちの日常生活を送っている場所と、そこに深い関わりのある情報について説明するということから今回はアプローチしていきたいと思います。

 

私たちの日常生活を送っている場所というのは、自分の自宅であったり、学校、職場、あるいはそういった場所への移動経路だったりします。これらの場所というものは自分自身にとって具体的で非常に身近なものです。そういった場所というものは、その場所と自分の知覚との関係の間にインターフェースを介在させる必要性というものが原則的にはありません。

 

そのような日常生活の場所というものは、自分の知覚にとって直観的に与えられている世界です。では、それを実際に地図などを使って確かめてみましょう。ここからは、ご自身の住んでいる場所を地図を使って眺めながら読み進めていってください。

 

言葉ですべてを説明しようとすると少し複雑になってしまうので、簡略化のために、自分の自宅をA、学校や職場をB、その他の自分がよく立ち寄る場所をCとします。そして、その場所への移動経路を=>で表す事にします。実際には、自分にとって直観的な世界というのはA=>B=>A、A=>C=>A、A=>C=>B=>A、A=>B=>C=>Aといった単純な関係式で表されるごく狭い範囲の個人的な体験になります。

 

世の中には、行動的な人もいるので、これらの関係式の範囲に全ての人の日常生活の体験が収まるということはありません。ですが、基本的には上述の関係式の範囲に自分の日常生活の体験が収まってしまう人が大半だと思います。以上によって分かるのは、一人の人間が、例えば日本国内で起きていることに関する情報をリアルタイムに全て把握するということは、まず不可能だということです。実際、自分の生活している範囲を地図で確認してみると、日本国内のかなり限定されたエリアのみに行動範囲が収まっている事がわかります。

 

例えば一人の人が「これからは体育会系の時代だ!」という発言をしたとしても、実際にその人の活動範囲というのは上述の関係式の中に具体的な場所の名前を入れただけの範囲内の体験に基づくものということになります。ここで、注意しなければいけないのは彼が仕入れた他人の発言やマスメディア等の伝聞情報の存在です。ただここでは、話をやはり簡略化するために、一端、マスメディアの存在を捨象します。

 

仮に、その発言をする人の自宅がa、職場や学校がb、その他の自分がよく立ち寄る場所をcとすると、先程の「これからは体育会系の時代だ!」という発言には、「a=>b=>a、a=>c=>a、a=>c=>b=>a、a=>b=>c=>aといった場所における日常生活を体験している人によれば」という前提が隠れていることになります。この時点で、この人の言っていることが、自分の日常生活の体験においても適用できるのか、その発言の信憑性を疑ってみる必要があります。

 

特に、その人の知的能力が果たして信頼に足るものなのかということは非常に重要な要素です。もしあなたの自宅がd、職場や学校がe、その他の自分がよく立ち寄る場所がfであり、その発言者と生活上の接点がほとんどないのであれば、もうこの時点で、あなたは直観的に確認する事ができる日常生活の体験の外側の出来事に関して、判断を下さなくてはいけないという事になってしまいます。ですので、違う世界の出来事と軽く受け流してしまっても何等問題ないでしょう。

 

もし発言者の言っていることが本当だと受け入れるのであれば、実際にあなたの日常生活の体験において、そういった事が導出できるのかということを確認してみないといけません。恐らくその段階で、「体育会系」って何だろうという疑問が湧きおこってくるはずです。「体育会系」って何でしょうか?私は「私は体育会系です」あるいは「あの人は体育会系だね」という人を社会人になって見た事がないです。なので、私だったら彼は何か無いものを有ると思ったのだなと考える事にします。このようなフィルタリングを行うのが他人の言っていることを受け入れる際の基本的態度です。

 

では彼が仕入れた他人の発言を含むマスメディア等の伝聞情報の存在を考慮に入れるとどうなるでしょうか、この場合、少し話が複雑になります。もし彼の発言が、彼の日常生活の体験から導出されたものではない場合、この発言は伝聞情報に影響をうけたものという事になります。

 

そして、彼は「これからは体育会系の時代だ!」という情報を偶々何がしかのインターフェースを介して、受け入れたのかもしれませんし、色々な情報を総合して、そのように結論づけたのかもしれません。この場合のインターフェースは現代であれば人、メール、SNS、テレビ、ラジオ、新聞、インターネット、手紙などが考えられるでしょうか。

 

このインターフェースの存在を前提すると、場合によって、あなた以外の他人が、あなたにとって直観的な日常生活の体験の場所であるd=>e=>d、d=>f=>d、d=>e=>f=>d、d=>f=>e=>dに関する、あなたが知っている相当数の情報を持っていることがあるかもしれません。それは相当稀なケースです。それなりの悪意やマンパワーがないとできないことなので、もし、そういうことがあなたの身の回りにあるようでしたら、倒錯した精神病理を持つ人間たちによる犯罪相当の行為の存在を疑った方が良いでしょう。

 

そういうことを、仕掛けてくる人物や情報源とは、あなたが一般市民であれば、絶対に関わってはいけません。そして、これは例外中の例外の事態です。ただ安心して欲しいのは、こういうことをする人間というのは哲学的な素養を欠いた不具者であり愚か者です。このような人間たちは、その病的な状態から情報を正確に受け入れる判断力はないと考えて問題ありません。そして人格が破綻しています。昔あったチェーンメール不幸の手紙と同じような性質のものです。最近ではいい年した大人がそういう情無いことをサラリーマン的な権力闘争の中でやり始めたようです。明確な所掌業務のない暇そうな官公庁内部でも、そういうことが蔓延しているようです。そういう場所は早くスクラップにした方が良いのですがね。

 

話を戻します。通常、もし発言者である人物が、情報を正確に受け入れる判断力のある人間であると、あなたが信頼するのであれば、これらの伝聞情報の信憑性の問題という事になります。

 

しかし、この時点で、あなたは、発言者にとっても日常生活の体験の外の情報について判断を下すということになります。これは難易度が非常に高いです。実際に発言者がどのようなソースを元に、その発言を行ったのかということについて、正確に知る必要があるからです。

 

彼が一次情報を入手できる人であれば話は単純ですが、それが又聞き、あるいは又聞きの又聞きというような情報だった場合、もはや手に負えません。この手の情報は絶対に信用してはいけません。これが、伝聞情報に影響を受けた発言者に対する基本的態度です。そして、補足になりますが、伝聞情報全般についても、前述のフィルタリングが有効です。また、伝聞情報のうち、マスメディアとの接し方に関しては以下のような記事を書いているので参考にしてください。

 

erscheinung.hatenablog.com 

現代に特有の人間の関係とは、自分たちが直観的に知覚できる日常生活の体験の枠外の情報が氾濫している状態の中でのコミュニケーションのことを言います。そのような、環境において正確な情報を把握するためには、原則的には上述の基本的態度を取る事が望ましいと言えるでしょう。

 

しかしながら、現代の私たちの日常生活において、これまでに申し上げた基本的態度を厳密に履行することは不可能です。結果として、その内容は、実際には無いものを有るように信じ込まされているような心理状態を生み出す主体と、その主体に盲目的に従う人間という構図に陥りがちです。

 

これらは、法人格こそ与えられていませんが、ある種の新興宗教です。一種の精神病理として扱った方が良い問題だと思うのですが、この仕事は専門家だけに任せていたのでは意味がなく、個人が自分で知識を高めて、自分で問題を解決するしかないのです。世の中に多く存在する法人格を有する新興宗教も基本的な構造は同じです。そのような新興宗教関係者とは、なるべく距離を置く。そして、もし関わらなくてはいけないことがあったとしても彼等の言っていることを真剣に受け止めてはいけません。

 

彼らと付き合ったとしても、あなたの個人的な問題が解決することは、全くと言っていいほどありません。むしろ、状態を悪化させる可能性の方が高いです。彼等の一部は自分たちの教えに反する人間を標的にして加害行為に及ぶことを躊躇いません。

 

彼等の善悪の基準はとても曖昧で安定しておらず、その行動原理は独善的かつ昭和の勧善懲悪ものの陳腐な物語のような、単純で幼稚な世界観を体現するものになっています。よって、誰がどのようなタイミングで、このような集団の標的になるのかという明確な線引きが出来ず、全ての人が場合によって彼等による危害の対象になり得る状態なのです。そして、その場合、大の大人が幼稚園児の喧嘩のようなことを平然と仕掛けてくることになります。対話は実際のところ不可能です。要するに対話以前の問題というか、その辺りの教育すらまともに受けてないのではないでしょうか?残念ですが、宗教としては未熟なものと言わざるを得ないという、この気まずさをどう処理したらいいのか困ってしまいます。

 

口では世界平和だとか人間主義だと言ってる割に、やってることが反社そのものだというのはどういうことなのでしょうか?日々の自分の生活に集中している人間の感覚があれば、そんなことはおかしいというのは、誰だって分かる事でしょう。自覚がないのは不具だからです。本当に残念ですが個人的に、これには心底失望しているのです。これほどまでに自制の効かない集団が好き勝手にやっているという事態には唖然としましたし、彼等の人間性の下限が底なしだという事態には戦慄しています。何か、過去に辛い境遇があって、そのように変質してしまったのだと思うのですが、誰かが真剣に心のケアを施して人生の軌道を修正してあげないと、結局のところ不具は不具のまま他人に利用されるだけで人生終ることになるのではないでしょうか?仲間はたくさんいるはずなのに、誰もそれを指摘してあげられないというのは集団としてもどうなのでしょう?

 

 結果として、彼等の運動の本質は自律に失敗した人間であることの自主的なラベリングと、如何に戦前の全体主義的な日本人の体質が温存されているのかということの証明になっています。この一連の人的活動の本当の主体が誰なのかは正直よくわかりませんが、結局、彼らも誰かから利用されている存在でしかないのです。

 

戦前の日本は、錦の御旗を掲げて実際には相当無謀でおかしなことをやってしまった過去があり、その点について今でも潜在的に国際環境における批判の的になるような危うい状態が厳然としてあるのです。しかし、このようなことをする彼等は、戦前の反省をしている人間の集団ではありません。

 

ですので、彼等との関係は避けられるならば避けましょう。これには、もちろん例外もあり得ますが、この情報があるのと無いのとでは立ち回りも異なってくるはずです。

 

結局ですが、自分の問題は自分である程度解決することができないと本当にどうしようもないのです。ただ、そこでそういった人たちに差別的な態度を取るのではなく、きちんと大人の対応をするということも大事になります。肝心なのは、優しさと、ある一線を越えた場合には突き放すという意志の強さです。その点、色々と難しいですが、それは自分で工夫してください。これについても参考になりそうな記事を書いているのでどうぞ。 

 

erscheinung.hatenablog.com

erscheinung.hatenablog.com

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 私がはてなブログに日本語で残しておきたいことは以上です。ここで私が言っていることを受け入れるのか受け入れないのかは自分で判断してください。この程度の知識は本当は高等教育で最低限、誰かが教えないといけない事ですが、残念ながら教育が行き届いていない人が世の中には多いようです。日本の場合、外形的には大卒という肩書きの人や政府首脳や政府高官の中でも、分かっているのか怪しい人が多いので気をつけてください。要するに人間としてのフォーマットがなされていない人たちがこの国を牽引しているのです。その意味をよく考えましょう。

 

このように、日本が独立国として特殊な状態であるというのは致し方のないことなのです。恐らく今後もこの状態は変わることはないかもしれません。非常に残念ですが...ただ、このことはある意味では幸運だったという側面もなくはないのです。

 

声がデカイだけの人間に火器の類を持たせると、どうなるのかという失敗の前例は多数ありますし、私も現在進行形で、その完全なる失敗作を目撃しています。

 

この点、よく考えてみると何をしたらいいのかが良くわかります。まずは、自分でよく考えるということが大事です。

 

そして街やネットをよく観察してみてください。最近の傾向は駄目な人間ほど目立つようになってきています。はっきりこれだけは言わせてください。彼等は本当にどうしようもない駄目人間です。ですから、そのような人たちに不快な気分にさせられるような事があったとしても、基本的態度に立ち返って日々の生活に戻りましょう。例えば、もし、あなたが高校や大学に行く事ができない境遇にあったとしても、ここで紹介したことを、実践していれば、それなりの知識は身に付くはずです。頑張ってください。

カーストが必要なのはカーストの末端の人間たちだけという真実。

 

所謂、カーストと呼ばれるものは、世界史の中だけのジャーゴンだと認識していたのですが、現代でも、その存在を信じて疑わない人が一定層おられるようです。

 

素朴な疑問なのですが、そういう環境で生きていて楽しいですか?

 

実は、カーストと呼ばれるものは、その存在を信じる人のためにあるようなものです。自分の存在を自分自身の力によって正当化できない人間が、そういった教条的な体系を使って、程度の低いオママゴトを始めるのです。行きつく先は思考停止と盲目的な隷属です。

 

基本的には、そういった人達とは付き合わなくても困ることはありません。なぜならば、カーストを信じる人の多くが少なからず日常的な知的態度に問題を抱えている人だからです。その人に従っても、自分の抱えている問題は全くと言っていいほど解決しません。

 

はっきり言いますが、付き合うだけ時間の無駄です。

 

世の中には大変魅力的な人生を過ごした多くの先人が色々な形で知恵を残してくれています。彼等は本当は性格が悪く気難しい人間なのにも関わらず、私は文句を言われた事が一度もありません。その人達と比べて、あなたにカーストを強要してくる人間はどれほど魅力的だというのでしょうか?これは合理的な選択の練習問題です。

 

考えてみてください。

 

どうせ、その頂点は胡散臭いおっさんであることがほとんどです。人が神や仏になるということはありえませんので...自分の意志をもう少し信じましょう。

 

これは、あらゆる集団の教祖的人物を擁護して申し上げるのですが、生きている人間に信仰が集まると、途端に理想化が始まることになります。そのような環境に置かれた個人は、信仰の対象として理想化された自分像と、現実の自分との間の少なからぬギャップに苦しむ事になるのです。言ってみれば信徒が教祖を崇め立てれば崇め立てるほど、一人の人間に対して残酷な仕打ちをすることになるのです。

 

口では信仰を語りながら、実際には不信心な信徒たちが、知的に自律していないがために、一人の人間にひどい仕打ちをしているということに、いい加減気付いてあげてください。教祖的人物が高齢になれば高齢になるほど、その負担が増して行きます。それは、さすがに酷というものでしょう。

 

人が頂点のカーストというのは、元来、脆いものなのです。それを信じる人が多ければ多いほど破局したときに大惨事になるので、 そういうのは道具として使わない方が賢い生き方ができるのではないでしょうか?そして、人知では捉えきれない何かに対する信頼を大切にしたほうが良いでしょうね。捉えきれないので、それが何なのかは私には分かりません。ただ、そういったものと向き合う方法はやはり先人が残してくれています。1,000年という単位で残されているものには、それなりの理由があるのです。

 

現代のカーストは下の人間をつくらなければ上にいけないようになっているようですが、情報が有り余る昨今、人の上に立とうとしなくても、得られるものは得られるようになっています。それにもかかわらず、人の上に立とうとか、目立とうとしている人間を観察してみてください。そうですね、最近のテレビに良く出演している人間や、拡声器を使って市民に向かって呼びかける人達はどういう人達でしょうか?

 

世の中の人間が監視しないといけない人間は自然と目立つような仕組みになっているのです。

 

どーでもいい話ですが、YouTuberは色々目立ったことをやっていますが、彼等のおかげで、実はわたしの好きな音楽は大抵無料で聞けるようになりましたね。YouTuber全く興味ないですし観ることも今後ないと思いますが、ありがとうございます。だいたい世の中こんなもんです。

 

このブログは、私ができれば人に教えたくないことを書いているので、極力ひっそりとやっていきたいものです。色々困っている人の藁程度くらいにはなるでしょう。その際は、個人の判断で、色々と吟味して、使えそうな所はどうぞ使ってください。

人材不足の職業領域の人間は大抵精神的に余裕がない。そして話す言葉が荒んでいる。

気持わかります。素直に手伝ってて言えない性格の人が多いですね。そういうの自縄自縛だと思うのですが...それは確実に人を遠ざける言動なので、改めないと人材不足が解消しないばっかりだと思います。

 

その上で、サラリーマン的な古めかしい、そして生産性のない権力闘争が絡んでくると本当に手に負えないですね。そういう会社には関わらないのが一番です。

 

そして、大体そういうところの社員は、みんな説明がとても下手くそです。すべては日本語能力が足りないことから始まるコミュニケーション不全なのですが...以心伝心なんてそんな甘えたことを言ってるから駄目になるのです。

 

残念ながら日本の企業は閉ざされているので、科学的な解決方法があるにもかかわらず、中々それが実践されません。言ってみれば医者嫌いの病人のようなものです。

 

そういうことをしていくと、誰かがやり始めたおかしな事が、そのまま、まかり通るような土壌が形成されるわけです。そのうち会社全体が宗教化して、明らかにこれは馬鹿だろというようなことを末端の社員がやらされる羽目になるのです。

 

これと言った所掌業務を持たない官公庁なんかに、そういう間の抜けた業務慣行が蔓延ってますね。そして、どこかの新興宗教が同じような状態です。一部の幹部も頭を痛めているのが現状でしょう。肝心の集団にとって本質的な行動指針は明文化されていないのにもかかわらず、どうでもいいことばかりが、きっちりマニュアル化されているという...そういう間の抜けた光景をいくつも見てきました。

 

教祖的存在が大哲学者だからなのでしょうか...トップダウンが強すぎて、末端が集団の本質じゃない方の駄目なマニュアルに従う人間ばかりになってます。殆どが昭和のサラリーマン文化によって生み出されたもので、それがエスニシティ化した結果として、部外者からは、その規則性が一目瞭然になっています。なぜだかわかりませんが、多くの人が昭和独特の浪花節の世界を真空パックにしたような滑稽さを醸し出しています。

 

そういう人は、概ね自分の存在が場違いだということに気づけない、歩く啓蒙の弁証法の良いサンプルになっています。

 

少しでもいいので、自分の考えていることや、見ている現実を言葉にできるようになるための練習をしてください。アイディアは共有するものです。例え違った考え方があったとしても、違っているからと言って淘汰するために実力行使するのは時間の無駄です。働く上で気をつけなければいけないことが、ほんの些細なことでも言語化されているのであれば、日々のイライラも段々と解消されていくことでしょう。実際、あなたの感じているストレスはそういったことを怠ってきたことが原因です。

 

そうなる前に、きちんと必要なことを言語化するということを心掛けてください。それができるようになれば、その場のノリや、周りに流されて何かをすることも少なくなると思います。

読まなくてもいい本とは何か?

何もかもが過剰な現代の日本。その辺に転がっている情報は大抵がどうでもいいものばかり、というのが普通になってきました。自分で正確な情報源にありつけない人は、大抵、変な新興宗教に嵌ったり、人に騙されながら生活を送り続けなくてはいけない、そんな荒んだ世の中が現実になろうとしています。

 

実は私の近所にもそういった人を沢山見かけるのですが、ありもしないものを信じ込まされて、平然と白痴のような振る舞いをするようになっています。日本では宗教というものが、権力闘争の道具になってしまっているので、その宗教の伝統が浅いほど、組織がサラリーマン体質になり、そういった傾向が強くなっているように思います。ここで重要なのは海外で伝統がある宗教も日本では新興宗教化しているということでしょうか...恐らく宗教を信じているという属性を持つ人が限定されているということが、まずあって、その上で教団を跨いだ信徒の移動があるからではないかと見ています。多くが他者依存的な生き方をしている人が多いのではないでしょうか?

 

結果、その集団の信奉者の方々は、誰かが始めた、過去のおかしなことを、それがその組織の人間のおかしな振る舞いの特徴であることが衆人に知れ渡っている今になっても、それをやり続けなければいけないという、業を背負わされることになっています。付き合わなくていい人が分かって大変助かりますし、見通しは確かに良いので、悪いことばかりでもないのですがね。でもいいのかな....本当はそういう人を利用するのではなく、自律できるように支援するのが宗教の役割だったはず...

 

彼等は、自分たちの心の平和を求めたのかもしれませんが、結果、自由意志を奪われているようにしか見えません。まあ、世の中広いですから、そういうことに幸せを見出す人間も少なからずいるのですね。私から見ると、貧しい生き方ですが。

 

ただ、そういうことをやっていくと、やがては国全体がスラム化するのが目に見えているのですが、残念ながら、そういった行動がどのような動きと連動しているのかは、末端の人は分からないようになっているというのが悲しいところです。不具者を政治利用するということは、宗教が一番やってはいけないことの一つです。

 

教義というものは時代の要請によって移り変るものです。それは、どの宗教も同じではないかと思うので、真剣に検討を始める時期が来ているということをお伝えしておきます。集団が貧しかった時代の教義がそのまま正当化されている現状というのは明らかに問題でしょう。残念ながら、関わりのある学者や知識人は、金づるとして彼らを利用しているだけで、その点を分かっていながら全く指摘しない悪人がほとんどです。関係者が不幸な生き方を継続していても、それはお構い無しなのでしょうか?信徒たちに対して無責任な態度とは言えないのでしょうか?

 

そういった貧しさを回避するためにも、日々の読書を工夫する必要があります。読書なんて面倒臭いという人もいると思いますが、それは、今まであなたの読んできた本が退屈なものだったからかもしれません。これは日本の教育が完全にイケてないからなのですが、実際には読書とはスリリングなものです。

 

ただ、これを絶対に読まなければいけないという本が一概にあるわけではなく、その人の興味や関心によって、必要なものは異なります。そういうときに、別に読まなくてもいい本を読んで時間を潰すというのは、なんとしても避けたいところです。そして、読まなくてもいい本をあらかじめ知っておく事ができたら、時間も節約できてよいのではないでしょうか?では読まなくてもいい本とはなんでしょうか?

 

1. 漫画雑誌と漫画の単行本

いや、楽しいじゃん?生活に潤いがなくなるじゃん?という方。否定はしません。私もたまにですが漫画本を読みます。でも週刊誌の購入額を月換算すると大体1,000円は越えてしまいます。単行本でも月に500円くらい。好きな漫画家がいればそれだけ出費がかさみます。

 

これらの刊行物は、出版業界という賭博場のような世界で、出版社が定期的なキャッシュフローを確保するために、薄利多売方式で発行しているという側面が強いのです。ですので、その出版社が発行する他の出版物と比較すれば質は当然に劣ります。これらの出版物は紙質からして低級なものということがわかっていない人は余程のお人よしです。

 

実際には、本格的な書籍というものは漫画を読むよりも読んでいて楽しいのです。無論、漫画の話で盛り上がったり、気分転換をするということも大事ですが、社会人になりはじめたら、そればかりにお金を費やすというのは少し考えてみてもいいのではないかと思います。それは、いろいろな面で無駄かもしれません。

 

2. ライトノベルを含む文芸書

これも1.に近いです。いろいろな人の文芸に触れることは、擬似的な経験知を増やしたり、自分の文章表現力を高める事にもつながります。世の中にはこの分野の本ばかりを大量に読んでいる自分を読書家と自称する人がよくいますが、多くは単なる浪費家なので、その人の自慢話はスルーしましょう。話についていけなくても問題ありません。そして、ついていく必要もありません。

 

世間一般に読書好きと呼ばれる人たちを見て、本を読む事にハードルを感じている方は安心してください。この分野の本は読んでいてイライラしたら、その本をごみ箱に、それこそ豪快に勢い良く叩きつけて捨てる。あるいは電話帳を引き裂くレスラーになったつもりで破り捨てるというのが許された数少ない分野です。日本の作家は世間的に「先生」などと言われて、いい気になっている人間が多いですが、実際には現代作家の作品というものは、そういう性質の読み物です。なるべく餌を与えないでください。

 

私の場合、純文学の作家の本は、大抵そのような目にあって、私の部屋から消えていきました。気に入った作家をつまみ食いするのが一番おいしい読み方ですが、なるべく長く読み継がれている本を選ぶのが読まなくてもいい本を読まずに済ますコツです。目安としては100年くらいの年月を経ても読まれているものということになるでしょうか?

 

読書が嫌いという人は、一冊本格的な古典の長編を探して読むだけにして、その後、この分野の本は読まないという方法をお勧めします。実際、読書が嫌いだった理由というのは上述のような退屈な本ばかりを手にすることが多かったからだと思います。

 

これらの本は実際、読まなくても死にはしません。が、例えば日本の近代文学ロシア文学を含む実存主義文学、ポストコロニアル文学の影響圏から現代は未だ脱する事が出来ていません。

 

3. 一部の宗教書

この分野の本は、あなたの道を誤らせる可能性があるので、一番警戒しなくてはいけません。なぜならば、あなたに対して本に書かれている内容の実践を求める記述が含まれていることが多いからです。できれば、読み方の指導ができる専門家と共に理解を深めていくというスタイルを取る事が望ましい分野なので、軽はずみに手を出すと確実に火傷します。1,000年単位で長く読み継がれていないものを手にする必要はありません。これが一つの基準です(基準に満たない場合はただの文芸書です)。そして、普通の宗教は迎合ではなく自律を促します。

 

これは大事なことですが、生きている人間が神や仏になるという教義があったら、それは明らかな嘘です。それが現実になるのだとしたら、福音書の記述通りに事が運んでないとおかしいのです。神の復活というものに対する信仰というのは、「私は神だ!」と血迷ったことを言い出す人間に楔を打っているということで、ほぼ間違いありません。それ故に、キリスト教者は、この復活思想をとても重要視するのです。そのようにして実際に集団内部における平和を実現していったのでしょう。福音記者は当時として一級の教養を持った人間以外には考えられません。

 

ヨーロッパ語族における冠詞や不定冠詞の概念は、そのような独特の文化を持つ西洋世界に特有のものです。日本人がこの点について理解に苦しむのも無理はないのです。普通の語学書には世界観の違いが文法の違いとして現れている事に対する説明がないからです。 信仰が言葉の形式まで支配している。そこまで徹底している宗教は他にあるでしょうか?

 

4. テレビやネット動画で影響力のある人が書いた本

テレビやネット動画に影響されやすい人用の本です。内容が薄く、紙面も余白が多いのが特徴的です。いますぐごみ箱へ放り投げましょう。

 

5. 成功者や経営者の体験談と名言集

読んだからと言って金持ちにはなりません。また仕事ができるようにも勿論なりません。社長になりたいというメンタリティだけが強い方は実際に会社を作ってみればいいと思います。だいたい50万円くらいの余裕資金があれば充分でしょう。そのための本を買った方が役に立ちます。

 

6.ビジネス関連のハウツー本

ビジネス環境というものは千差万別、十人十色です。誰かのベストプラクティスを真似たとしても、言語化されていない要素の方が多い事がほとんどです。事例収集は大事ですが、それがそのまま複雑なビジネス環境に応用できるわけではありません。「こうすればうまくいく」というような定石は自分でつくるものです。

 

7.海外の大学名などのブランドをタイトルに掲げている本

思考停止した人間の読む本です。専門書というよりは文芸書です。いますぐごみ箱へ放り投げましょう。

 

8.フランス現代思想

3.を参照してください。フランス科学思想とはまた別物です。重要概念が日本語に翻訳できないようになってます。専門書というよりは文芸書として扱うべきものです。

 

9.サイバーセキュリティを文化/社会問題として扱う本

問題を具体的に把握していない証拠なので読まなくていいです。この手の本の著者は詐欺師です。

 

 10.最近の非専門家が書いた通史

歴史とは本来個人的な興味関心に応じて現れるものです。客観的な歴史などというのはありえません。で、21世紀の今でも一次史料にアクセスできる人は限られていますので、そんなに簡単に歴史を語るなどということは構造的にできないようになっています。研究機関に所属しない人が通史を語るという場合、注釈を確認して、しかるべき資料にきちんとあたれているかを確認してください。それができていない人の本は読まなくていいです。

 

11.こうすれば健康になることを謳った本

読まずに最寄りの医者から直々に健康指導を受けてください。問題の多くは運動不足と栄養失調からくるものです。先ずは食生活を筆頭に生活習慣と安易な情報に頼るその姿勢を改めてください。参考までに有用情報のリンクを載せておきます。

 

12.多くの四六判

 印刷代が安いからでしょうか...恐らく出版されている本が多いのがこの判型の書籍の特徴で、その分、ハズレが多くなってます。良い書籍を安価に世の中に届けたいという出版社の企業努力が結晶した本と、ただ本を売って金を稼ぎたいというだけの不届き者が書いた本が混在するのが、この判型の世界です。学術出版系の本は比較的良書が多いですが、一般書は混沌を極めます。本当に読書が好きな人はこの判型で良書を探すのが得意です。

 

13.最近の新書の一部

日本の高等教育は学生運動以前と以後で大分質が違います。以後の教育に属する学者の書いた本は、質的に劣ることが多くなりました。その影響が、学者とボリュームゾーンの読者層との接点である新書で顕著に現れ始めています。それは岩波や中公といった長い歴史を持つ新書においても例外ではありません。それだけ、日本の大学が荒廃したのです。で、この大学を荒廃させた世代と、そういった世代の人間を信じ込んで、飼われている事に気づかない不具な人間というのが、今でも世の中に害悪を垂れ流しているというのが実態ではないでしょうか...要するに不具な人間の再生産のサイクルが回っているわけです。このことの意味をよく考えましょう。

 

14.タレント化した学者の書いた本

ある意味で、一番、読んではいけない本かもしれません。印税収入の味を占めて、学者としてはもう完全に腐っている可能性が高いです。悪しき人間中心主義者というのはこういう人たちのことを言います。同様の特徴を持った人にも注意しましょう。

 

さて、いかがだったでしょうか。この記事を読んだ後、書店に行って手にとれる本がどれだけ書棚に並んでいるでしょうか?無論、上述の本の中にも見るべき物がないわけではありませんが、優先順位は低く設定しておいた方がいろいろな面で無駄を省けます。書店に足を運んだ時に、読まなくてもいい本以外の本が、児童書と趣味の雑誌だけということになったのであれば、その書店はあまり良くない書店です。そこで時間をいくら潰しても得る物はとても少ないです。

 

できれば一度、都道府県や政令指定都市の図書館や、大学図書館に行って蔵書の違いを確認してください。一番良いのはミッションスクール系の大学図書館になるでしょうか?これはキリスト教入信をお勧めしているわけでは断じてありませんが、現代の図書館というシステムがキリスト教世界の影響が強く反映された施設であるということを踏まえないといけません。資料収集の目的が明確なので、質的にも優れている場合が多いです。

 

本を探しに行く場合、いきなり書店に行くのではなく、上述の図書館に行くということが習慣化していれば、あとは期間内に読みきれない本を最寄りの書店で注文するだけ、あるいはアマゾンで購入するだけというようなシステマティックな方法を取ることが可能です。図書館の使い方が分からなければ、図書館に行って図書館の使い方の本をまずは読んでください。

 

もっと時間を節約する方法があることも確かですが、かけた労力に応じて読む本の質が磨かれていくことを考えると、ここで申し上げたことを実践されるのが一番良いと思います。急がば廻れです。

ネットを利用することでやらなくてよくなったこと

はっきり言うと、マスメディアのニュースサイトは、そんなに頻繁に見なくても良くなりましたね。

 

えっ!?じゃあお前何を使って時事を把握するんだ?と思われる方もおられるかもしれませんが、基本的には情報発信主体のオフィシャルサイト等を訪問することで、だいたいの情報は手に入ってしまいます。

 

たとえば、手始めに天気予報。いろいろな天気予報サイトがネットで検索すると引っかかりますが、気象庁のサイトを見てみれば、その日の天気予報、天気図、衛星画像、降水確率、週間予報、台風情報、地震情報、火山情報など、ほとんどの気象及び災害情報が手に入ってしまいます。

 

でも、それくらいだろ?と言われる方もおられるかもしれませんが、いやいや、そればかりではないのです。例えば、首相の動静を知りたいと思ったら、首相官邸のホームページを直接確認してみるということも一つの手段です。だいたい首相や官房長官、政府閣議関連の情報は、このオフィシャルを見ていれば充分な気がします。この他に、国会や各政党、関連する省庁のオフィシャルを見ていれば政治関連のマスメディアのニュースはほとんど見なくてもいいでしょう。先の森友問題なども、財務省のホームページで事件の原因になった文書を直接確認する事が可能です。

 

このように、自分の気になっている情報の主体が運営しているオフィシャルのホームページを確認し、それを一つずつブックマークしていくと、自分の関心分野に関する質の高い一次情報が手軽に毎日手に入るようになります。何か自分の関心のある分野の論点に関する検索ワードの後に「.go.jp」あるいは「.lg.jp」を付け加えてand条件で検索するというのも有効です。

 

慣れてきたら国内ばかりではなく、国外の情報もドメインを変えて、同じように検索してみると良いと思います。例えば隣国である、ロシア、韓国、北朝鮮、中国、そして同盟関係のある米国などの大使館や官公庁、準公式のホームページを調べてみましょう。普段ニュースでは知る事ができない、その国の政府関連機関などが発表する一次情報を確認する事ができます。特に国内メディアで叩かれている国の情報にアクセスしてみると、いろいろな発見があるはずです。

 

そして、そういった情報を集めていくと、マスメディアが流すニュースの中に、その事実があったのか、なかったのかを確認する事ができないような記事がたくさんある事に気づきます。そういうニュースはほとんど見なくて良い記事だと思って間違いありません。全く見ないというのが不安だというのなら、プライオリティを下げて見出しだけ眺めるだけにしておくというのでも良いと思います。

 

そういうことを着実にやっていくと、マスメディアが流すストレスフルな情報が原因のイライラが減って良いのではないかと思います。最近では、韓国が自衛隊の哨戒機にレーダーを照射したことがニュースになって騒がしいですが、安倍政権は定期的に特定の官公庁に対してストレステストみたいなことをやるので、その一貫という見方もできなくはありません。この様子だと防衛省は首相の意向に反対できなかった様子。国の安全保障の要である役所がサラリーマン体質では、武官の命を容易に危険にさらす事にもつながりかねません。無論、この場合は、韓国の当局側と調整した上で発表してそうですが...

 

ただ、オフィシャルばかりに頼りすぎると、情報の発信主体に都合の良い情報しか入手できなかったり、政府の言いなりになったりしないか?という疑問が湧き上がるのが当然です。それは、確かにその通りです。

 

そんなときには、ネットをうまく活用すればいいのです。では、どのような方法が考えられるでしょうか?まずは、SNSで発信主体の発表内容を広く拡散することです。次に、先のSNSに加えて、自身のブログやホームページで発表内容の批評を行うことです。その際には、その発表のどの点に問題があるのか?またどのような反証ができるのかを具体的に記載することです。そして、これは最後の手段ですが、発信主体に直接問い合わせてしまうというのも良いでしょう。意外にも、そういった場合のプレス担当者の対応は結構丁寧なことが多いはずです。これらの行動は、フェイクニュース対策にも繋がります。

 

国民一人一人がこのような対応をしていけば、政府もおかしなことはできなくなります。今はマスメディアの権力監視機能が崩壊してしまっている状態なので、その点のバランスが完全に崩れてしまっていますが、このようなことを一つ一つ私達がやっていけば、次第にそれも元に戻っていくことでしょう。

 

色々書きましたが、ではマスメディアはもういらないのでしょうか?今後、どうなるかはわかりませんが、今のところは、上述の事項を偏りなく行える人は無くてもいいと思います。しかし、忙しい生活をしている人などは、そうも言ってはいられないでしょう。そういう人は、自分の関心の偏りを補正する目的で、メディア各社が報道している内容の論点がどのようなものなのかを確認することをお勧めします。一部の優秀な記者の記事や、社説、コラムなどはまだ魅力的なものもなくはないので、私自身はそういうところまでマスメディア不要論を主張する気はありません。マスメディアからしか入手できない情報もまだまだ依然としてあることを踏まえれば、彼等の役割はまだ残っているのです。ですが、段々とその重要性は低下しているということは確かです。個人的には、そこまでして世の中の事なんて知りたい人なんているのかよ...というのが正直な感想です。

 

ここで大事なことは、他人の言いなりになって、何も考えずに、言われるがままに、短絡的な行動をするのではなく、少しでもいいので、調べたことを元に、最終的には、自分で、判断して、行動をすることです。それは民主主義国家に住む上では当然のことです。そして、誰かがおかしなことを始めたら、それに同調するのではなく、おかしいと指摘しましょう。それで自分の集団内部での立場が悪くなるのであれば、その集団からは離れても、今はネット時代なので、いくらでもやりようはあります。他人を不幸に陥れなくても自分の幸せを追求することが可能なのです。そうなるためにも、まずは正確な情報を入手する方法を実践してみてください。