カーストが必要なのはカーストの末端の人間たちだけという真実。

 

所謂、カーストと呼ばれるものは、世界史の中だけのジャーゴンだと認識していたのですが、現代でも、その存在を信じて疑わない人が一定層おられるようです。

 

素朴な疑問なのですが、そういう環境で生きていて楽しいですか?

 

実は、カーストと呼ばれるものは、その存在を信じる人のためにあるようなものです。自分の存在を自分自身の力によって正当化できない人間が、そういった教条的な体系を使って、程度の低いオママゴトを始めるのです。行きつく先は思考停止と盲目的な隷属です。

 

基本的には、そういった人達とは付き合わなくても困ることはありません。なぜならば、カーストを信じる人の多くが少なからず日常的な知的態度に問題を抱えている人だからです。その人に従っても、自分の抱えている問題は全くと言っていいほど解決しません。

 

はっきり言いますが、付き合うだけ時間の無駄です。

 

世の中には大変魅力的な人生を過ごした多くの先人が色々な形で知恵を残してくれています。彼等は本当は性格が悪く気難しい人間なのにも関わらず、私は文句を言われた事が一度もありません。その人達と比べて、あなたにカーストを強要してくる人間はどれほど魅力的だというのでしょうか?これは合理的な選択の練習問題です。

 

考えてみてください。

 

どうせ、その頂点は胡散臭いおっさんであることがほとんどです。人が神や仏になるということはありえませんので...自分の意志をもう少し信じましょう。

 

これは、あらゆる集団の教祖的人物を擁護して申し上げるのですが、生きている人間に信仰が集まると、途端に理想化が始まることになります。そのような環境に置かれた個人は、信仰の対象として理想化された自分像と、現実の自分との間の少なからぬギャップに苦しむ事になるのです。言ってみれば信徒が教祖を崇め立てれば崇め立てるほど、一人の人間に対して残酷な仕打ちをすることになるのです。

 

口では信仰を語りながら、実際には不信心な信徒たちが、知的に自律していないがために、一人の人間にひどい仕打ちをしているということに、いい加減気付いてあげてください。教祖的人物が高齢になれば高齢になるほど、その負担が増して行きます。それは、さすがに酷というものでしょう。

 

人が頂点のカーストというのは、元来、脆いものなのです。それを信じる人が多ければ多いほど破局したときに大惨事になるので、 そういうのは道具として使わない方が賢い生き方ができるのではないでしょうか?そして、人知では捉えきれない何かに対する信頼を大切にしたほうが良いでしょうね。捉えきれないので、それが何なのかは私には分かりません。ただ、そういったものと向き合う方法はやはり先人が残してくれています。1,000年という単位で残されているものには、それなりの理由があるのです。

 

現代のカーストは下の人間をつくらなければ上にいけないようになっているようですが、情報が有り余る昨今、人の上に立とうとしなくても、得られるものは得られるようになっています。それにもかかわらず、人の上に立とうとか、目立とうとしている人間を観察してみてください。そうですね、最近のテレビに良く出演している人間や、拡声器を使って市民に向かって呼びかける人達はどういう人達でしょうか?

 

世の中の人間が監視しないといけない人間は自然と目立つような仕組みになっているのです。

 

どーでもいい話ですが、YouTuberは色々目立ったことをやっていますが、彼等のおかげで、実はわたしの好きな音楽は大抵無料で聞けるようになりましたね。YouTuber全く興味ないですし観ることも今後ないと思いますが、ありがとうございます。だいたい世の中こんなもんです。

 

このブログは、私ができれば人に教えたくないことを書いているので、極力ひっそりとやっていきたいものです。色々困っている人の藁程度くらいにはなるでしょう。その際は、個人の判断で、色々と吟味して、使えそうな所はどうぞ使ってください。